毎日のなんでもない手の作業−洗濯や掃除、炊事にはじまって、庭の草むしりをしたりぼーっと縁側から空を眺めたり、花を摘んで活けたり、子どもが散らかした本を片づけたり。
夫とお酒を飲みながら今日あったことを話したり、その会話に子どもが割りこんで「ウルトラマンの話をしようよ」とむりやり話題を変えたり。
そんなささやかな、具体的な作業に心を傾けるときに、「ああ、私はここに、こうして生きている」と実感する。
その実感が、私をたしかなものにしてくれる気がする。
それでも、その実感は、しょせんは私ひとりだけのもの。
だから、「もう、いいや」という思いからはなかなか抜けだせない。
楽しみもよろこびも、自分一人のものなのだから、「投げだしたって、いいじゃない」という思いから逃れさせてはくれない。
一人暮らしのときに家事のよろこびを知ったけれど、一人で暮らすさびしさは紛らわせてくれなかった。
夫と結婚して、ひとつの暮らしを共有することで、ずいぶん私はしっかりと現実を生きていくことができるようになった。
子どもが生まれて、夫婦だけの暮らしはもっと楽しいものになった。
でも、「もう、いいや」という気持ちはなくならない。
けれども、なくならないまでも、「子どものために、『もう、いいや』なんて思ってはいられない」という、新しい支えができたことに、最近、気がついた。
子どもがせめて大人になるまでは、生きていたい。
子どもに不自由をかけないために、元気でいたい。
子どもにかなしい思いをさせないために、夫婦がなかよくありたい。
そんなふうに、自然に思うようになっていたのである。
子煩悩、という言葉がある。
子どもは悟りを妨げる煩悩になる、というわけだけれど、私は「そうか、悟り澄まして俗世を否定する道に逃げないで、ふつうの人として日々の生活をちゃんとしていこうと思わせる力が、子どもにはあるんだ」と解釈している。
「もう、いいや」から抜けでる知りあいの陶芸家が、こんなことを言っていた。
「もう生きていくのが嫌になることもあるんだけど、そういうとき、子どもの頃に朝、おかあさんがまな板でトントンつて料理をしていた音を思いだすんだよ。
その音が、自分を支えてくれているんじゃないかな」。
少々、かっこよすぎる言葉だが、そこには哀愁が感じられた。
この言葉を思いだしていて、なぜ子どもが支えになるのかが、わかった気がする。
私は、「子どものために、死ねない」と思うけれど、それは、正確には、子どもに生きる力を与えているのは親なのだから、親として死ねない、という思いだったのだ。
子どもがかわいいから、という単純な理由ではない。
そして、親として子どもとともに暮らす、ということは、なにか特別な教育をするようなことではないのだ。
それはたとえば、まな板の音を子どもに聞かせる、ということ。
そして、子どもの気持ちのなかに「ああ、おかあさんがごはんの用意をしているなあ」と満たされた思いを抱かせること。
たとえば、子どもが夜、布団にもぐりこんだとき、布団が昼のあいだに干してあったことに気づいて「お日さまのにおいがする。
おかあさんが干してくれたんだなあ」とあたたかい気持ちに包まれながら眠りにつかせること。
あるいは、父親がさびた蝶番を直している姿を見せて、子どもに「おとうさんって、すごいなあ」と嬉しい思いを抱かせること。
そしてまた、食事しながら「おいしいね」という言葉を交わすことであり、掃除をしながら「出したものは片づけなさい」と言い、「きれいになって気持ちいいね」と言うことであり、いっしょに草むしりをしながら「いっしょにやると楽しいね」と言う。
それらのことは、親がなんでもない日常の行為としてやっていてこそ、子どもの心に届くものなのだろう。
親みずからが、「いま、ここに生きて暮らしている」ことをたいせつに思いながら過ごす日常を子どもとともにすることで、子どもは「生きるというのは、こういうことなんだ」「生きるよろこびとは、こういうことなんだ」と感じとっていけるのだろう。
だからこそ、私は子どもの親となって、「もう、いいや」から抜けでて、現実をきちんと生きようと思えるようになったのではないだろうか。
「御用はないですか」結婚して、なにが新鮮だったといって、御用聞きに応対したときだった。
酒屋さんのおにいさんが、「こんにちは、タツミ屋です」なんて言って玄関を開けて入ってくる。
「今日は、なにかありますか」と訊かれて、さいしょは戸惑った。
夫が慣れた調子で「ああ、ビールがもうないから、一ケース頼みます」などと応え、その夜には「ビール、持ってきました。
冷えたのを一本、入れときましたから」とおにいさんがやってくる。
もちろん、私だって、御用聞きを知らないわけではない。
小さな子どもの頃は、母が応対していたのを見ていた。
けれども、新興住宅地のマンションに移り、一人暮らしを転々としていた二十年近く、その存在をすっかり忘れていたのだ。
そのうち、そのおにいさんともなじんできて、世間話のひとつもするようになったとき、「なんだか、私、主婦してるじゃない」と一人で嬉しくなったりもしたものだった。
けれども、その頃から急に増えだした酒のディスカウントストアに、なにげなく夫婦で入って以来、酒屋さんの用がほとんどなくなってしまった。
あまりの値段の違いにびっくりして、ビールは車で買いだしに行くようになったからだ。
ときどき訪れる酒屋のおにいさんに申しわけないような思いをしながら、「さいきん、ビールはあまり飲まないから」などと言いわけしているうちに、おにいさんもあまり足を運ばなくなってしまった。
そして、つぎに移った新興住宅地では、御用聞きに来る店もないまま、なにもかも自分たちで買いだしにいく生活に慣れていったのである。
ところが、その家から引っ越して現在の家に移ったある日、クリーニング屋の御用聞きがやってきたのだ。
つい、引っ越し後でばたばたしていて季節の衣替えもちゃんとしていなかったので、何枚かクリーニングをお願いすることにした。
それをきっかけに、週に一回くらいずつ、御用聞きに来てくれるようになったのである。
さいしょは、ちょっとうっとうしいような気がしていたのだが、しばらくたつと、「ああ、御用聞きって、いいな」と思うようになった。
御用聞きに用がないか考え、必要なものがあれば頼むことを繰りかえすことが、家庭をちゃんと維持することに役立っていることに気づいたのだ。
結婚当時に新鮮な思いで「私、主婦してる」と思った感覚は、どうも、この「御用聞きとのやりとりで、家庭をちゃんと維持している」という感覚からきていたようだ。
つまり、家事や家計を一人であれこれやっているときよりも、他人である御用聞きをあいだに入れるほうが、うまくまわしている実感がある、ということ。
「御用はないですか」「そうね、今日はあれとあれと」、「今日は御用は?」「そうね、今日は、なにもないわ」―そんなやりとりをするたびに、頭のなかで家のことをおさらいする。
「日曜日に着たウールのスーツは、もう今年は着ないだろうな」「ビールはあと二本しかないから、そろそろだな」「醤油は、昨日、封を開けたばかりだからまだ大丈夫」「お米は、実家から新米をもらったから、あとひと月はもつかな」などと確認しなおす。
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